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島津家
島津忠良 しまづ ただよし (1492~1568) 島津家
日新斎の号でも知られる島津家中興の祖。九州統一まで、あと一歩とせまった島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の祖父。島津家の分家・伊作家の出身だが、相次いで当主を亡くし弱体化していた宗家の当主・勝久の要請を受けて国政を担当することになる。勝久の養子として嫡男・貴久を送り込み、貴久が宗家の家督を譲られると後見となるが、のちに勝久がこれを後悔して対立、長い戦いの末にこれを収集し、幕府に働きかけて貴久を守護に据えることに成功した。養蚕など多くの産業を興す一方で、人材育成にも取り組み、のちに明治維新を成し遂げる薩摩志士の教典「いろは歌」を作ったことでも知られる。
<日新斎いろは歌>
いにしへの 道を聞きても 唱へても わが行いに せずばかひなし (昔の賢者の立派な教えも、言うだけでは意味がない。実行することが大事である。)
楼の上も はにふの小屋も 住む人の 心にこそは 高きいやしき (立派な家に住んでいようと、粗末な家に住んでいようと、人の真価は心で決まる。)
はかなくも 明日の命を 頼むかな 今日も今日と 学びをばせで (明日、自分が生きているかどうかなんて分からない。今この時を大事に励むべきだ。)
以下省略
島津貴久 しまづ たかひさ (1514~1571) 島津家
島津家の分家・伊作家の当主・忠良(日新斎)の嫡男。島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の父。島津家中興の祖といわれる父・忠良と並び称される名君。相次いで当主を亡くし、弱体化していた宗家の当主・勝久の養子となって宗家を継いだ。のちに貴久に家督を譲ったことを後悔した勝久と対立すると、後見役の父と共に勝久を母方の実家(大友家)のある豊後に追いやって薩摩を掌握し、守護の座に就いた。その後、4人の息子たちと薩摩、大隅、日向の三州統一を目指して転戦し、岩剣城の戦いでは日本史上初めて実戦で鉄砲を使用したともいわれる。西大隅を手に入れ大隅掌握への足掛かりをつくるが、大隅の戦国大名・肝付家との抗争中に病没した。
島津義久 しまづ よしひさ (1533~1611) 島津家
島津家16代当主。貴久の嫡男。祖父・日新斎に「三州の総大将たる材徳自ら備わり」と評された。父と共に薩摩、大隅、日向の三州統一を目指したが、大隅掌握の途上で父・貴久が病没、すでに家督を譲られ当主となっていた義久は、優秀な弟たちを束ねて父の遺志を継ぎ、大隅を手に入れた。1578年には耳川(高城川)の戦いで大友家に大勝して日向を手に入れ、父の悲願でもあった三州統一を成し遂げる。その後も勢いにのって北上、大友宗麟を追い詰め、さらに沖田畷の戦いでは、龍造寺隆信を討ち取って勝利し、九州統一の一歩手前までせまる。しかし、豊臣秀吉の大軍勢が九州に上陸すると次第に劣勢となり、最後は降伏して薩摩、大隅と日向の一部のみを安堵された。降伏後も度々秀吉の命に背いたため、秀吉は命令に忠実だった弟・義弘を優遇するようになるが、家中での影響力は保持した。関ヶ原の戦いで義弘が西軍について敗北すると、西軍についたのは義弘の独断であると徳川家康を説得して所領を安堵された。
島津義弘 しまづ よしひろ (1535~1619) 島津家
貴久の次男。祖父・日新斎に「雄武英略を以て傑出し」と評された猛将。木崎原の戦いでは兵3百で日向・伊東家3千の軍勢を打ち破り、続く高城川(耳川)の戦いでも多くの大友家重臣を討ち取って島津家の待望だった薩摩・大隅・日向の三州統一に貢献した。豊臣秀吉の九州征伐の際は、徹底抗戦を主張したが、圧倒的な兵力差を前に敗戦が続き、最後は兄・義久と共に降伏を願い出た。降伏後は、島津家存続のために尽力、秀吉に反抗的であった義久に代わって朝鮮出兵に応じて渡海し、敵から「鬼石曼子」と呼ばれるほどの活躍をした。そのため、秀吉からは、たいそう気に入られ、義久以上の待遇を得ている。関ヶ原の戦いでは西軍に属して本戦に参加。敗色が濃くなると中央突破で徳川家康本陣をかすめて井伊直政、本多忠勝の猛追を振り切り、後に「島津の引き口」と呼ばれて武名を轟かせた。戦後、西軍についたものの義久の必死な講和交渉により島津家の所領は安堵され、義弘の咎めもなしとされたが、自身は隠居し、晩年は若者の育成に尽力した。
島津歳久 しまづ としひさ (1537~1592) 島津家
貴久の三男。祖父・日新斎に「始終の利害を察するの智計並びなく」と評された智将。二人の兄・義久、義弘と共に岩剣城の戦いで初陣を飾り、その後も薩摩、大隅、日向の三州統一に貢献した。豊臣秀吉の九州征伐軍に対しては、抗しがたいとして最初から和睦を提案したが、他の兄弟たちに一蹴された。だが、戦いが始まると島津勢は歳久のいう通り、全く抗うことができずに敗戦を重ね、義久は降伏を決める。しかし、今度は和睦するには時期があるとして徹底抗戦を主張し、義久との会談に訪れた秀吉の駕篭を家臣に命じて矢を射かける事件まで起こす。最後は義久の説得で降伏して咎めもなかったが、1592年、秀吉に不満を持っていた島津家臣・梅北国兼が一揆(梅北一揆)を起こし、これに歳久の家臣が多く参加していたため謀反の嫌疑をかけられる。歳久は病で身動きできる状態ではなかったが、責任を負い島津家安泰のために自ら死を選んだ。
島津家久 しまづ いえひさ (1547~1587) 島津家
貴久の四男。祖父・日新斎に「軍法戦術に妙を得たり」と評された名将。3人の兄とは母が異なり、歳も10歳以上離れている。九州統一へ向けての主だった戦にはほとんど参加、高城川(耳川)の戦いでは高城に寡兵で籠り、大友勢4万を釘付けにして勝利に貢献。沖田畷の戦い、戸次川の戦いでは総大将として出陣し、前者では龍造寺隆信と龍造寺四天王とよばれた重臣たちを悉く討ち取り、後者では長宗我部信親と十河存保らを討ち取って勝利している。豊臣秀吉による本格的な九州征伐が始まると、徹底抗戦を主張して戦うが敗れ、兄・義久と義弘が降伏する前に豊臣秀長と単独講和した。しかし、その直後に急死した。そのため、通説では病死とされるが、豊臣、島津両面による毒殺説も存在する。1575年に上洛経験があり、行軍中に馬上で居眠りをする織田信長を見たり、明智光秀の饗応を受けたことが自身の残した日記に書かれている。
島津忠恒 しまづ ただつね (1576~1638) 島津家
義弘の三男。のちに叔父と同じ家久を名乗った。若い頃こそ酒色に溺れていたが、長兄と次兄が亡くなり、豊臣秀吉の意向で後継者に指名されると、元々備わっていた武勇を発揮し、父・義弘と共に慶長の役で活躍した。関ヶ原の戦いでは父が西軍についてしまったため、徳川家康と講和交渉にあたった伯父・義久の代理として上洛し家康に謝罪。結果、所領安堵を勝ち得た。初代薩摩藩主となった時には伯父・義久、父・義弘ともに健在だったが、二人の死後も薩摩藩の地盤を固める一方、幕府に対しても、いち早く妻子を江戸に送って恭順を示し、参勤交代の先駆けとなった。
島津豊久 しまづ とよひさ (1570~1600) 島津家
家久の子。父の急死により家督を継ぎ、若くして日向佐土原城主となる。若年で城主となれたのは、父・家久が豊臣秀長との講和成立直後に亡くなったため、あらぬ嫌疑がかけられることを憂いだ秀吉が、島津義弘へ働きかけたからといわれる。その後、伯父・義弘が実子同然に接して養育につとめたため、豊久も義弘を実父のように慕ったといわれる。関ヶ原の戦いでは義弘に従って西軍として本戦に参加。敗色が濃くなると、殿(しんがり)となって戦場に留まり、井伊直政、松平忠吉の追撃を抑え、義弘の退却時間を稼いで討死した。豊久らの奮戦は、のちに「島津の退き口」と呼ばれ、負傷した直政、忠吉両名は、この時の傷が元で数年後に亡くなっている。
島津忠長 しまづ ただなが (1551~1610) 島津家
島津貴久の末弟・尚久の子。島津四兄弟の従兄弟にあたる。高城川(耳川)の戦い、沖田畷の戦いに従軍し武功を挙げた。九州統一戦では、岩屋城を守る大友家臣・高橋紹運と戦うが、二万の兵を擁しながら僅か七百六十三人の城兵相手に落城まで半月を費やしてしまい、豊臣秀吉の九州上陸を赦してしまった。島津家が秀吉に臣従してからは文禄・慶長の役に参加。関ヶ原の戦いでは加藤清正の侵攻を防ぐため国境警備にあたり、戦後は徳川家康との交渉役をつとめた。
伊集院忠朗 いじゅういん ただあき (?~?) 島津家
島津家臣。忠良、貴久の二代に仕えた。各地を転戦して薩摩の統一に貢献し老中となった。大隅国加治木城主・肝付兼演を攻めた際には、鉄砲の導入を進言して容れられ、日本史上初めて鉄砲が実戦で使用された。
伊集院忠倉 いじゅういん ただあお (?~?) 島津家
島津家臣。忠朗の子。父・忠朗と共に大隅国加治木城主・肝付兼演を奇襲策で追込み、降伏させるのに貢献した。父の家老職を受け継ぎ、島津家の筆頭老中となった。
伊集院忠棟 いじゅういん ただむね (1541?~1599) 島津家
島津家臣。忠倉の子。父・忠倉につづき筆頭老中をつとめた。豊臣秀吉による九州征伐では、主君・島津義久に降伏を説いたが容れられず、征伐軍との戦闘には消極的な態度をとった。島津家が秀吉に臣従してからは、豊臣政権との交渉役をつとめ、その能力を高く評価した秀吉によって八万石を与えられた。そのため、家中でも権勢を誇るようになるが、裏では疎まれ、秀吉が亡くなると、主君・忠恒によって謀殺された。
上井覚兼 うわい かくけん (1545~1589) 島津家
島津家臣。貴久、義久の二代にわたって仕えた。多くの戦に参加しているが、槍働きよりも政治・行政での活躍が多く、義久の代に老中の一員となり、高城川(耳川)の戦い後には宮崎城主となって実質的に日向一国を任された。九州征伐では、島津家久に従って豊臣勢と戦うが、家久と共に降伏。その後は所領を失い隠棲した。島津家の重要資料「上井覚兼日記」を著しており、その内容から文化芸能だけでなく信仰などあらゆる分野に通じた人物だったことが知られている。
種子島時堯 たねがしま ときたか (1528~1579) 島津家
島津家臣。種子島家14代当主。1543年に明船が種子島に漂着。その船に乗り込んでいたポルトガル商人から2挺の火縄銃を大金で購入した。2挺のうちの1挺は島津家を通して足利幕府に献上。もう1挺を八板金兵衛に命じ、日本で初めて国産の火縄銃を制作した。火縄銃は伝わった地名から「種子島」と呼ばれ、戦国時代の戦のやり方に新風を吹き込んだ。島津家臣としては島津貴久に従い、大隅国攻めに参加した。
長寿院盛淳 ちょうじゅいん もりあつ (1547~1600) 島津家
鹿児島安養院の住持で島津家の外交僧。九州統一戦で活躍するが、豊臣秀吉の九州征伐が始まると和睦を主張して交渉にあたった。のちに家老となり、特に義弘に重用されたため、関ヶ原の戦いでは義弘の元に駆けつけて本戦に参加した。「島津の引き口」で、義弘を戦場から逃がすために影武者となり討死した。
新納忠元 にいろ ただもと (1526~1610) 島津家
島津家臣。「鬼武蔵」の異名をとった猛将だが、和歌や連歌にも通じた教養人でもあったという。木崎原の戦い、沖田畷の戦いなど島津家の主だった戦いのほとんどに参加して武功を挙げた。戸次川の戦いでは、討死した長宗我部信親の遺骸を引き取りに来た長宗我部家臣・谷忠澄を丁重に迎え入れ、大事な後継者を戦の習いとはいえ討死させてしまったことを陳謝したといわれる。豊臣秀吉の九州征伐軍に対しては徹底抗戦を主張し、義久、義弘の説得でようやく降伏した。関ヶ原の戦いでは加藤清正が領内に侵攻してきた報に接し、国境の警備にあたった。
山田有信 やまだ ありのぶ (1544~1609) 島津家
島津家臣。島津義久からの信頼厚く島津家の家老をつとめた。高城川(耳川)の戦いでは、高城に籠り、援軍として入城した島津家久と共に大友軍4万を足止めして勝利に大きく貢献した。豊臣秀吉の九州征伐でも徹底抗戦を主張して高城に籠って抗い続け、義久の説得でようやく開城した。終生、義久からの信任厚く、有信が亡くなると、義久は自ら出向いて焼香し、その死を惜しんだといわれる。
山田有栄 やまだ ありなが (1578~1668) 島津家
島津家臣。有信の子。九州征伐の際、父・有信が主君・義久の説得で豊臣軍に降伏すると人質として出された。その後、義弘に従って朝鮮出兵に参加。関ヶ原の戦いでも義弘に従って本戦に参加し、「島津の引き口」では義弘に傷一つ追わせずに守り切って共に帰国を果たした。忠恒(のち家久)の代には家老職に就任。島原の乱では藩主名代として総大将となり千人を率いて参戦した。